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かきうち京美さん(参議院選岡山選挙区予定候補)がキャラバン

2013年4月29日 崎本 とし子 とし子からの手紙

参議院選挙の岡山選挙区の共産党の予定候補はかきうち京美さんです。46歳の女性で、子どもが2人(中学生と小学生)いて、子育て真っ最中のママさん候補です。

今日は、氏平県議とともに、岡山市中区を政策宣伝で回りました。

彼女の演説は、とてもわかりやすく、聞きやすいなあと思います。共産党の経済政策を4点でまとめ話します。そして、憲法のこと・・・・。かきうちさんは、岡大法学部出身です。安倍総理は憲法を変える・・・ということを選挙の争点にしようとしています。憲法をめぐっての大綱引きになる今回の選挙です。あなたはどちらの綱を持っていますか。(9条改憲ですか、9条活かそうですか)私は、もちろん「9条活かそう」の綱を持っていますよ。

96条を変えることについては、「改憲論者」からも筋違い・・と指摘されています。憲法はそのときの権力者の都合や思惑で帰ることが出来ないように、発議要件のハードルが高くなっていますが、EU諸国も同様です。(安倍総理は国会でウソの答弁をしていますが・・・安倍総理のウソ答弁を聞くとヒットラーを思い出します)簡単にかえることが出来るとリスクがあるからそう定めてあるのです。

かきうちさんは、思いを込めて「私には2人の子どもがいます。子どもたちに戦争をする国を許すわけには行かない。自由と民主主義の国をしっかりつくり、子どもたちに手渡したい。憲法のすべての条項を暮らしと政治に活かす道を共産党とともに進めましょう!」と訴えていました。

手を振っての激励も多く、元気をもらうキャラバンでした。


マウスが壊れた・・・!

2013年4月29日 崎本 とし子 とし子からの手紙

パソコンとの付き合いは長いのですが、時々故障(?)すると困ります。

昨日から画面は出るのに、いくらクリックしてもピクとも動かなくなりました。接続の点検をし、どうしてもだめで、サポートしてもらっているHさんに来てもらいました。

結果は、「マウスが壊れたんですね。マウスは消耗品ですから・・・・」

なるほど・・・、機具だもの長く使えば消耗するよなあ・・・と納得。早速買い換えました。コードレスのにしました。

キーボードも壊れやすいそうです。これからもパソコン君との上手な付き合いを続けたい・・・と思います。


今日、母は83歳に!

2013年4月28日 崎本 とし子 とし子からの手紙

今日は母の誕生日です。

朝、早速電話をかけて「誕生日おめでとう!83歳だね。」と伝えました。「ありがとう・・・。何歳か忘れるよ・・・。それよりみんな変わりは無い?」と自分より私の家族を心配する母です。

いつも自分のことより子どものことを心配してくれる母です。ありがたいことですね。ひざの痛いのが辛いけど、畑仕事も時々はする・・という様子です。母の声を聞くことがうれしいです。

私はこれまで忙しくバタバタとした暮らしをしてきました。そのことを見てきた母は、私の体を心配しながらも、応援してくれました。親はありがたいものです。子どもを信じてくれています。

私は母を泣かせることはしたくない。だから、母より先には死なない・・・と決意して、がん闘病に向き合うことが出来ました。母の笑顔を見る回数を増やしたい・・・と思うこの頃です。

この大切な日に、「主権回復の日」などといって、天皇まで引っ張り出し、集会をしようとする安倍内閣の「憲法違反行為」には、怒りがこみ上げます。知性のない政治家は、国を危うくする・・・と思えてなりません。


B787運行承認に疑問

2013年4月27日 崎本 とし子 とし子からの手紙

先日、飛行機を使って東北へ行きました。飛行機を利用するときはなんだか「ちょっとした覚悟」をします。

飛行機事故のことが気がかりだからです。出かけるとき、娘に「何かあったら後はよろしく・・・」と伝言しています。

このたび、政府は「B787の運行を承認する」という方針を示しました。しかし、国会論戦(穀田議員・共産党)では、トラブル原因はまだわかっていません。バッテリー熱暴走の原因究明が出来ずに、「煙が早く感知できるようにする・・・」「必要な改修をしてから」とかいわれても心配ですよね。

飛行機の乗客は、がんばりようが無いのです。手術台に乗ったのと一緒で、安全運行の責任を持つ事業者にいのちを委ねています。断じて利益優先では困る!!買ったけど使えないのでは、利益は上がらない・・・とばかり「運行承認」をするのはやめて欲しい・・・。

安全神話と利益優先で、原発事故は起きたのです。「神話」では命をまもれません。国が独自に調査をし、きちんと原因の究明をして欲しいものです。


私の「東北支援」・・・「忘れない」「諦めない」「無力ではない」

2013年4月26日 崎本 とし子 とし子からの手紙

東北の被災地のことを忘れてはいませんか。私は、「忘れない」「諦めない」「無力ではない」という早乙女勝元さんの言葉を思い出しながら、忘れないために現地へボランティアに行き、その状況を知り、伝え、出来ることを続けています。

フォークグループ「灯」で歌を通して語り、物資購入での応援は、「ギョウザを食べて東北支援」(蜂屋食品とのコラボで、仮設住宅への炊き出し支援を続ける)を継続。加えて山内鮮魚店(6事業所がすべて津波で流されたが、南三陸町の仮設店舗で再生を目指している。この地域のリーダーです)の新ワカメなど海産物を岡山から買い支えたい・・と思います。

岡山との絆の千羽鶴を贈ります。

支援報告会はご連絡があれば、出向きますのでご連絡ください。リアルな報告をさせていただきます。


4・28「主権回復の日」に疑問

2013年4月25日 崎本 とし子 とし子からの手紙

4・28の政府主催の「主権回復の日」の集会に大いに疑問を持っています。サンフランシスコ条約により、沖縄や小笠原などは、米軍の占領下に引き続き置かれ、20年後の5・15まで復帰しませんでした。沖縄では、「屈辱の日」ということになっています。

自民党は、選挙公約で集会をすることを表明しているそうですが、正確な歴史を踏まえて、4・28を「主権回復の日」としたとはどうしても思えません。もし、歴史を踏まえたうえで4・28を「政府として」定めるのなら、この政府は大間違いの政府であり、アジアの平和は危うくなる・・・と思えます。まともな外交が出来るとは思えません。

靖国神社への閣僚の参拝は、偶然ではないのかも知れませんね。靖国神社が、戦争を「平和のため」「植民地解放の戦争」だと美化し、肯定していることを知る人は、閣僚の参拝を認めることは出来ないですよね。政治的にバランス感覚が狂っています。(個人的な思いを政治に持ち込むな・・・といいたい。公私混同する人は閣僚になるべきではありません)

麻生大臣や安倍総理は確信犯のようですので、そういう人に政府としてこれからのアジア外交を任せていいですか・・・と国民は問いかけられていることになるでしょう。

私は、今からでも政府の英断で、取りやめるか(まだアメリカ言いなりが変わっていない)、せめて日にちを5・15に変えるべきだ・・・と思います。皆さんはどう思いますか。

4・28は、私の母の誕生日です。私とすれば、その大事な日を政府によって「無茶な日」にして欲しくない・・・と思うばかりです。やめてくれ~~!です。


愛育委員会総会・・・岡山市5600人の愛育委員は全国一!

2013年4月24日 崎本 とし子 とし子からの手紙

岡山に帰ってきてから、愛育委員会役員会、市総会、中区会長会・・・と忙しい毎日です。岡山市の愛育委員の数は日本一です。この仕組みを継続し、新しい視点で再構築することが必要だ・・・と保健所長が話されました。

岡山市の公衆衛生行政は、愛育委員なしには語れません。今年も本格的に活動が始まりました。私の着き10日足らずは愛育委員活動で埋まっています。それに加えて、がん教育や啓発講演などのヘルスボランティアです。こういう活動が私に元気をくれるのです。

今日は南三陸町で購入したわかめが届きました。昨日とどいた笹かまぼこと合わせて、東北土産がそろいました。報告しながら、みんなで産直を楽しみたいと思います。


宮城の被災地ボランティア(3)

2013年4月24日 崎本 とし子 とし子からの手紙

NHKのあさイチは、今週岩手の被災地から放送していますね。気仙沼市は宮城の県北端ですから、岩手の隣町です。わかめやカキの養殖など特産品も類似しているので、放送を身を乗り出して観ています。

さて、雪の21日の夜は、天候が回復し、22日は晴天。5時前には朝日を拝むことが出来ました。さくらは満開です。

宿泊したホテルは、震災後、生活費難所になったところで、震災の記憶を風化させないように・・・と「語り部バス」を毎日運行しています。全国各地から客が来ていて、「何か出来ることはないか・・・」と何度か訪れている人もいます。千葉から来たという人と話しましたが、「また来たいけどバスで25人の団体を・・・と思っても人が集まらないんです。・・・」といっておられました。私が「10年通うつもりで、来年も仮設住宅の炊き出しに来ますよ」と話すと、何か考えてみる・・・・といっておられました。聞いた話を伝えると涙ぐんでおられたようでした。

8時45分出発の「語り部バス」に乗り込みました。

語り部は、ホテルの従業員であり、消防後援会の副会長でもあるIさんです。南三陸町内を巡ります。死者566名、行方不明223名、3311戸(全体の約60%)が流失した町は、いたるところに痛々しい津波の爪あとが残っています。

海から300メートルの戸倉小学校(戸倉地区は、140戸のうち4個以外は全滅)では一人も被害者が出なかった取り組みのこと、ベットごと流された患者さんなど74名が亡くなった志津川病院のこと、町の防災センターで最後まで避難を呼びかけながら、結婚を前に無くなった遠藤みきさんのこと、そして余知られていない上司の三浦隆さんのこと・・・。(三浦さんは、遠藤さんに避難をするようにいい、最後は自分が避難を呼びかけつつ亡くなった人ですが、検証される前までは遠藤さんを避難させなかった・・・と非難をされたそうです。しかし、放送の声のテープを再生して、最後の声は三浦さんであることが確認されたそうです。家族が辛い思いをされたようです)

現地ならではの話も聞かせていただいて、当時の厳しさが伝わりました。

4月10日に電気回復、水は8月中旬まで回復しなかったそうです。

仮設住宅にいて、職場には1時間かかるようになったというIさんは、「こういう経験を参考にして、皆さんの役にたてば・・・」と実にリアルな説明をしてくださいました。

はじめて行くと、何もなくなっているので元の町並みがわからないのですが、説明によって以前の町並みが目に浮かぶようでした。

気仙沼では、500トンの大きな船が海から500メートルほど陸へ上がっており、津波の巨大な力をまざまざと見せ付けていました。船はまもなく撤去されるそうです。残すか・・・という議論もされたようですが、「この光景を見ることが辛い」という現地の皆さんの要望により、撤去がきまったそうです。

住宅跡に咲いているたんぽぽをみて、ここにも暮らしがあったんだ・・・と感じられ、胸が詰まりました。

南三陸町で地元食材満載の絶品の「春つげ丼」を食べて、新ワカメを買いました。その後、仙台空港へ向かい、16時25分離陸し、快晴の空を飛んで、伊丹空港へ。岡山に無事到着したのは、20時過ぎでした。

今回の東北訪問では、ギョウザ専門店の(株)蜂屋食品の蜂屋社長に大変お世話になりました。地域貢献するのを「役目のひとつ」と考える社訓を実践しておられる人です。本当にありがとうございました。

東北は遠いですが、顔が見える関係をつなぐと近い・・・。復興予算を巡る不正事件、国の補助金をうけ事業再生をしようと必死の事業者の苦悩、何とかがんばろうとしている多くの皆さんの姿・・・を忘れず、これからも岡山からの支援を続けます。今回ご縁ができた南三陸町の魚屋さんとも物資購入で応援が出来ないか考えています。

漁業でがんばる人たちにとって、福島原発の汚染水流出や海洋投棄は絶対あってはならないことです。さらに風評被害で追い討ちをかけるようなことを許してはならない!被災地支援を口にするなら消費税は増税してはならない!

それは、私が現地で実感したことです。東北のことを忘れないで、これからもできる支援を続けましょう。


宮城被災地ボランティア(2)

2013年4月23日 崎本 とし子 とし子からの手紙

21日はなんと雪!!(JE!JE!JE!です)仙台では、66年ぶりの気象だとか・・・。とにかく冬に逆戻りです。寒い!気温は0,1度で、最高気温も4度という日になりました。

朝は塩釜市場に行き、海鮮丼をいただきました。昼の炊き出しの差し入れに、まぐろの切り落としと「しそ巻き」を購入。七ヶ浜へ行く前に、塩釜神社へ。

さくらに雪が降り積もっていました。珍しい光景に、カメラマンがいっぱいです。私は、66年に一度の出来事であるこの日のことを忘れることは無いでしょう。

さて、七ヶ浜町の仮設住宅へ。七ヶ浜町は、壊滅的被害を受け、仮設住宅は6箇所です。一番大きい仮設住宅七ヶ浜第一スポーツ広場仮設へ行きました。約140世帯330人以上の人が暮らしています。血圧を測りながら、いろんな話を聞きました。仮設住宅の暮らしはやはりかなり厳しい・・・と実感しました。早く住宅確保を!・・と願わずに入られません。「それまで生きていられるかどうか・・・」という言葉が何度も聴かれました。

Y医師は2人の子ども(8歳、5歳)とともに参加。岡山市の学生ボランティアグループの集会に報告にも来てくださったとのことでした。坂病院は皆さんの健康を支えている病院です。たくさんのスタッフが参加していました。(この春、10人の医師と40~50人の看護師が就職したそうです。1年目のドクターも来ていました)

ギョウザとおにぎりと豚汁の炊き出しを食べながら、歌声喫茶のようになり、みんなで歌いました。自分のうちでは大きな声が出せない、隣の明かりが漏れている・・・というような暮らしなのですから、大声を出すことはできないのです。

雪の中、焼きたてギョウザをとりに来てくださる人もたくさんおられました。とりにこれない人にはテイクアウトも・・・・。13時前に炊き出しも一段落。

七ヶ浜町を一回りしましたが、被災の爪あとは生々しく残り、まだまだ苦難が続いている・・・と実感しました。

午後は、石巻市にあるジャパンハートの子ども・内科クリニック(土・日に診療)を訪問。看護師のKさん(岡山大学大学院にいたことがある優秀な人です)がミャンマーから帰国し、7月までいるとのことで、久しぶりの再会でした。「子どもたちの心のケアが必要です」と話していました。クリニックの役割はまだまだ終わりそうにはありませんね。(代表の吉岡秀人医師が6月16日に岡山で講演予定です)

被災から2年余、心のケアはまさにこれからが大事なのです。

その後、大川小学校へ。80人以上の子どもたちが逃げ遅れて亡くなりました。今、親たちが対応の検証を求めているそうです。海から4キロのところにある小学校の校庭に立つと、土手が高くて、川を上って迫る津波に気付くことが難しかったのかも・・・と思えました。すぐ近くに山があるのを見ると、あそこに逃げていれば死なずに済んだのでは・・・と親たちは思うだろうな・・・とその無念を思いました。

志津川の戸倉小学校は海から300メートルですが、児童は全員無事でした。震災の前日に、避難訓練をしたそうで、それが効果的面だったそうです。でも、川をさかのぼった津波が海側からでなく山側から学校を襲った近くの中学校では、9人が亡くなったとの話もききました。津波の破壊力は本当にすさまじいものです。

この日は、南三陸町の志津川にあるホテルに宿泊することにしました。


宮城県の被災地へボランティア(1)

2013年4月23日 崎本 とし子 とし子からの手紙

20日から22日まで、宮城の被災地へボランティアにいきました。メンバーは4人です。私と夫、義娘(次男の連れ合い)と友人のOさんです。

私は、2011年に医療支援に行って以降、毎年友人知人を誘い、健康相談や仮設住宅の炊き出しに行くことを決めています。10年は続けるつもりです。(最初行ったとき、10年は復興にかかる・・・と思ったからです)

20日、仙台空港に着くと、少し肌寒い日でした。塩釜市に到着すると、桂島へ。塩釜港から焼く30分です。この日は、合同法要の日でした。毎年定点で写真を撮っている場所に行きました。2年前は、ガレキが散乱していました。1年前は、ガレキが袋に入れられてうずたかく積み上げられていました。今年はその袋はなくなって、片付いていましたが、海水浴場は手付かず・・・のままでした。堤防工事が始まっていました。浦戸漁協の事務所も取り壊され、仮設になっていました。

仮設住宅は廃校になった小学校の校庭に建っています。夕方で、住んでいる人には会えませんでしたが、港で高齢の女性と話をしました。岡山から来た・・と話すと、「ありがとう・・」といってくださいました。

うれしかったのは、養殖が始まっていることをこの目で確認できたことでした。何も無かった浦戸の海は、ノリ養殖の竹が一面に広がっていました。「これが通常の光景だったんだ・・・」と感慨無量でした。皆さんがんばられましたね・・・と心から思いました。

その後、このたびも連携して炊き出しに行ってくださる(株)蜂屋食品へ。会社に行くと、入ったところに、岡山から贈った千羽鶴がかけてありました。(うれしい!)

蜂屋さんご夫婦と坂総合病院の友の会の皆さんと合流し、夕食を食べながら炊き出し支援の打ち合わせをして、被災地の現状を聞きました。特別ゲストは、岡山市から仙台市へ1年間支援に入っているKさんも合流して夕食を食べれたことでした。私は、Kさんを現地の人に紹介し、みやぎ愛媛県人会の人ゆかりの「店」(青葉区にある)も紹介して、食事や話が出来るようにつなぐことが出来ました。(仙台の人とご縁が出来るといいね!)

現状では、友の会が取り組んでいる「お茶っこ会」のこと・・・。孤立をなくすためにサロンを開いているのです。このところ仮設住宅への炊き出しは激減。連絡したら歓迎されたとのことでした。(良かった!)

医療費補助がなくなることへの不安が強く出されている・とのこと。国は県がするのなら8割の補助をするというが知事は医療費免除を打ち切る方向だとか・・・。(県がしなくても国は出せばいいのにね)なんとしても継続して欲しい・・とがんばっている・・とのことでした。仮設住宅は不便なところが多い、交通手段が必要。(ぐるりんバスを運行させている)

水産特区を取り組むというが、漁業に企業が参入しても採算が取れなければ放り出すのが心配。(銀鮭の養殖で放り出した経過があるらしい)

とにかく復興住宅ができないので、希望が持てない。住宅と雇用が必要。「仮設」は2年仕様なのに、何年住まなくてはならないのか。風呂の追い炊き機能すらなく、薄壁で隣の声が聞こえるようなつくりで狭い・・・厳しい環境だ。

そして、報道されない被災当時のひどい「出来事」について、たくさん話を聞きました。

21日は、七ヶ浜町の仮設住宅へ。私は義娘(看護師)と健康相談を担当することになりました。


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