RSS Feed

サイト内検索

こ ん に ち は、 崎本とし子 です

最近のコメント

最近の投稿

カレンダー

2013年4月
« 3月   5月 »
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

年月別

記事分類

ページ

カウンタ

[以前のblogから通算:2011年5月14日、79958開始]

メタ情報

お気に入り

ご近所・地域

健康・看護・命

RSS 岡山市公式ホームページ トピックスRSS

RSS 岡山県庁RSS(新着情報)

サイト内検索

宮城被災地ボランティア(2)

2013年4月23日 崎本 とし子 とし子からの手紙

21日はなんと雪!!(JE!JE!JE!です)仙台では、66年ぶりの気象だとか・・・。とにかく冬に逆戻りです。寒い!気温は0,1度で、最高気温も4度という日になりました。

朝は塩釜市場に行き、海鮮丼をいただきました。昼の炊き出しの差し入れに、まぐろの切り落としと「しそ巻き」を購入。七ヶ浜へ行く前に、塩釜神社へ。

さくらに雪が降り積もっていました。珍しい光景に、カメラマンがいっぱいです。私は、66年に一度の出来事であるこの日のことを忘れることは無いでしょう。

さて、七ヶ浜町の仮設住宅へ。七ヶ浜町は、壊滅的被害を受け、仮設住宅は6箇所です。一番大きい仮設住宅七ヶ浜第一スポーツ広場仮設へ行きました。約140世帯330人以上の人が暮らしています。血圧を測りながら、いろんな話を聞きました。仮設住宅の暮らしはやはりかなり厳しい・・・と実感しました。早く住宅確保を!・・と願わずに入られません。「それまで生きていられるかどうか・・・」という言葉が何度も聴かれました。

Y医師は2人の子ども(8歳、5歳)とともに参加。岡山市の学生ボランティアグループの集会に報告にも来てくださったとのことでした。坂病院は皆さんの健康を支えている病院です。たくさんのスタッフが参加していました。(この春、10人の医師と40~50人の看護師が就職したそうです。1年目のドクターも来ていました)

ギョウザとおにぎりと豚汁の炊き出しを食べながら、歌声喫茶のようになり、みんなで歌いました。自分のうちでは大きな声が出せない、隣の明かりが漏れている・・・というような暮らしなのですから、大声を出すことはできないのです。

雪の中、焼きたてギョウザをとりに来てくださる人もたくさんおられました。とりにこれない人にはテイクアウトも・・・・。13時前に炊き出しも一段落。

七ヶ浜町を一回りしましたが、被災の爪あとは生々しく残り、まだまだ苦難が続いている・・・と実感しました。

午後は、石巻市にあるジャパンハートの子ども・内科クリニック(土・日に診療)を訪問。看護師のKさん(岡山大学大学院にいたことがある優秀な人です)がミャンマーから帰国し、7月までいるとのことで、久しぶりの再会でした。「子どもたちの心のケアが必要です」と話していました。クリニックの役割はまだまだ終わりそうにはありませんね。(代表の吉岡秀人医師が6月16日に岡山で講演予定です)

被災から2年余、心のケアはまさにこれからが大事なのです。

その後、大川小学校へ。80人以上の子どもたちが逃げ遅れて亡くなりました。今、親たちが対応の検証を求めているそうです。海から4キロのところにある小学校の校庭に立つと、土手が高くて、川を上って迫る津波に気付くことが難しかったのかも・・・と思えました。すぐ近くに山があるのを見ると、あそこに逃げていれば死なずに済んだのでは・・・と親たちは思うだろうな・・・とその無念を思いました。

志津川の戸倉小学校は海から300メートルですが、児童は全員無事でした。震災の前日に、避難訓練をしたそうで、それが効果的面だったそうです。でも、川をさかのぼった津波が海側からでなく山側から学校を襲った近くの中学校では、9人が亡くなったとの話もききました。津波の破壊力は本当にすさまじいものです。

この日は、南三陸町の志津川にあるホテルに宿泊することにしました。


宮城県の被災地へボランティア(1)

2013年4月23日 崎本 とし子 とし子からの手紙

20日から22日まで、宮城の被災地へボランティアにいきました。メンバーは4人です。私と夫、義娘(次男の連れ合い)と友人のOさんです。

私は、2011年に医療支援に行って以降、毎年友人知人を誘い、健康相談や仮設住宅の炊き出しに行くことを決めています。10年は続けるつもりです。(最初行ったとき、10年は復興にかかる・・・と思ったからです)

20日、仙台空港に着くと、少し肌寒い日でした。塩釜市に到着すると、桂島へ。塩釜港から焼く30分です。この日は、合同法要の日でした。毎年定点で写真を撮っている場所に行きました。2年前は、ガレキが散乱していました。1年前は、ガレキが袋に入れられてうずたかく積み上げられていました。今年はその袋はなくなって、片付いていましたが、海水浴場は手付かず・・・のままでした。堤防工事が始まっていました。浦戸漁協の事務所も取り壊され、仮設になっていました。

仮設住宅は廃校になった小学校の校庭に建っています。夕方で、住んでいる人には会えませんでしたが、港で高齢の女性と話をしました。岡山から来た・・と話すと、「ありがとう・・」といってくださいました。

うれしかったのは、養殖が始まっていることをこの目で確認できたことでした。何も無かった浦戸の海は、ノリ養殖の竹が一面に広がっていました。「これが通常の光景だったんだ・・・」と感慨無量でした。皆さんがんばられましたね・・・と心から思いました。

その後、このたびも連携して炊き出しに行ってくださる(株)蜂屋食品へ。会社に行くと、入ったところに、岡山から贈った千羽鶴がかけてありました。(うれしい!)

蜂屋さんご夫婦と坂総合病院の友の会の皆さんと合流し、夕食を食べながら炊き出し支援の打ち合わせをして、被災地の現状を聞きました。特別ゲストは、岡山市から仙台市へ1年間支援に入っているKさんも合流して夕食を食べれたことでした。私は、Kさんを現地の人に紹介し、みやぎ愛媛県人会の人ゆかりの「店」(青葉区にある)も紹介して、食事や話が出来るようにつなぐことが出来ました。(仙台の人とご縁が出来るといいね!)

現状では、友の会が取り組んでいる「お茶っこ会」のこと・・・。孤立をなくすためにサロンを開いているのです。このところ仮設住宅への炊き出しは激減。連絡したら歓迎されたとのことでした。(良かった!)

医療費補助がなくなることへの不安が強く出されている・とのこと。国は県がするのなら8割の補助をするというが知事は医療費免除を打ち切る方向だとか・・・。(県がしなくても国は出せばいいのにね)なんとしても継続して欲しい・・とがんばっている・・とのことでした。仮設住宅は不便なところが多い、交通手段が必要。(ぐるりんバスを運行させている)

水産特区を取り組むというが、漁業に企業が参入しても採算が取れなければ放り出すのが心配。(銀鮭の養殖で放り出した経過があるらしい)

とにかく復興住宅ができないので、希望が持てない。住宅と雇用が必要。「仮設」は2年仕様なのに、何年住まなくてはならないのか。風呂の追い炊き機能すらなく、薄壁で隣の声が聞こえるようなつくりで狭い・・・厳しい環境だ。

そして、報道されない被災当時のひどい「出来事」について、たくさん話を聞きました。

21日は、七ヶ浜町の仮設住宅へ。私は義娘(看護師)と健康相談を担当することになりました。