放射線の健康への影響(衆議院厚生労働委員会) 7月27日
7月27日、衆議院厚生労働委員会では、原発事故関連の質疑(放射線の健康への影響)がおこなわれました。新聞報道ではほとんど知らされていませんが、医療関係者の間では話題になっています。皆さんにも知らせたくて紹介します。
衆議院ビデオライブラリ >> 2011年7月27日 (水)、衆議院厚生労働委員会(3時間 45分)
発言者は以下の通りです。児玉参考人(東京大学アイソトープ総合センター長)の発言が注目されています。
- 牧義夫(厚生労働委員長)
- 明石真言(参考人 独立行政法人放射線医学総合研究所理事 薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会放射性物質対策部会委員)
- 唐木英明(参考人 日本学術会議副会長 東京大学名誉教授)
- 長瀧重信(参考人 長崎大学名誉教授)
- 沢田昭二(参考人 名古屋大学名誉教授)
- 児玉龍彦(参考人 東京大学先端科学技術研究センター教授 東京大学アイソトープ総合センター長)
- 今中哲二(参考人 京都大学原子炉実験所助教)
- 山口和之(民主党・無所属クラブ)
- 吉野正芳(自由民主党・無所属の会)
- 坂口力(公明党)
- 高橋千鶴子(日本共産党)
- 阿部知子(社会民主党・市民連合)
- 柿澤未途(みんなの党)
児玉教授の試算では、福島原発事故で漏出した放射性物質は広島原発の約20個分だとのこと。驚きでした。1年後の残存量は原爆の場合、千分の一に減るが、原発からでた放射性物質は十分の一程度にしかならない・・・といいます。福島県南相馬市で自ら手がけている除染活動を通じて、内部被爆からこどもを守ろうとする責任感がひしひしと伝わる発言でした。
教授は国会の怠慢を厳しく批判し、国として責任ある対応を強く求めました。
児玉教授は国の責任で「除染研究センター」を設置するよう求めました。「福島におけるセシウム除染は、次の世代への日本の科学者の責任である・・」と医学雑誌に書いています。
参考人として発言するその迫力に、真剣さを感じました。国にはっきりものをいう心ある科学者を総結集して、事故対応の策を国が責任をもって実行して欲しい。何兆円かかろうとも、優先順位を間違えてはいけないのです。
岡山医療生協は、放射能測定器を被災地に送るための募金に取り組んでいます。民間レベルでもできることはあります。正確な測定と確かな除染方針を出すよう、国に強く求めたい!
私はこどもを抱きしめて、涙ながらに発言した福島のおかあさんの姿を胸に刻んでいます。
母親大会分科会・・・「父と暮らせば」そして小森陽一さんの講演
小森陽一東大教授(1953年生まれ)の「文学」の話を聞きたい・・と思っていました。迷わずにNO、37分科会へ。
講演内容は、井上ひさしさんとの出会いから、「父と暮らせば」のこめた思い、実らなかった第2幕目の構想にまで及び、本当に参加してお徳な分科会でした。
井上ひさしさんが「切れた」と思うことが2つあったそうです。一つは「天皇裕仁」が「広島の人には気の毒だったが、原爆はやむを得なかった・・・」といったこと。もう一つは中曽根総理(当時)が広島の原爆病院を訪問して、「病は気から・・・。気力で病気は治る・・・」という意味のことを発言したこと。まったく人事で反省のかけらもない様子が許せなかったそうです。「書かなければ・・・」の思いが5年をかけて「父と暮らせば」の戯曲を産み出しました。
はじめての原発予算は1954年3月3日に国会で可決されています。中曽根内閣の時です。3月1日ビキニ水爆実験の2日後です。国民の命をなんだとおもっているのか・・・という井上ひさしさんの怒りが伝わってくるようでしたした。
「原発というのは日本だけだ。あれは核発電所だ。核は人とは共存できない。電力は原発がなくても足りている。原発推進者の脅しにだまされてはいけない!おしゃべりの力で政策を変えよう!」という指摘は参加者を勇気付けました。
「原発は定期点検に入るので、再稼動させない運動を強めれば廃止に追い込める。」の言葉に隣の席の人は、「そうか・・・・!」とつぶやいていました。
映画のなかで「あのときの広島では死ぬことが自然で、生き残ったことが不自然なのだ・・・」と負い目をもって生きている娘(主人公)の姿が、被災地で何度も聞いた「なぜ自分だけ生きているんだろう」「私も津波が連れて行ってくれればよかったのに・・・・」の言葉と重なり、涙があふれました。
生き残ったものは生きていかなければならないのです。「亡くなった人の分までいきよう・・・」などと軽率にはいえないけれど、私は生き抜いて欲しい・・・と思いながら被災地へ行っています。
がん経験者としての思いも重なります。がんで亡くなった人の届けたかった願いや思いを生きている私たちは受け止めて、一粒でも流す涙を減らしたい・・・・と私は思っているからです。
分科会も大満足の大会でした。いき急いでいるわけではないけれど、いろんなところへ出かけると懐かしい人と再会し、免疫力が上がる気がします。
これからもあちこちでかけたい・・と思います。人が生きているということは「行動すること」ですから・・・!
母親大会全体会・・・被災者の訴えに涙
湯浅誠さんの講演は、「日本社会は、自殺者が3万人を超える状況が13年続いている。異常な状況だ。(殺人が年600人、交通事故死は約5000人とくらべても・・・)非正規雇用率と未婚率は相関している。30才代前半の男性の未婚率は49%になっている。就活とは就職活動、婚活とは結婚活動、・・・そうすると生活は生きる活動か・・・。生活するために、やることをやりながら求めるべきは求めていかなければならない。・・・貧困をなくし、人間らしく生きられる社会をつくろう!」と呼びかけました。大拍手!
くみこさんは、「INORI~祈り」の曲を歌い、3,11に石巻市で被災した経験を語りました。CDを全員にプレゼント!ステキでした。
広島の皆さんが作った構成劇は、世界の被爆したこどもたちの声をつなぐ内容で、「死んだ女の子」の曲が心に残りました。
全国が一つになる訴えの時間は、被災地からの多くの参加者に惜しみない拍手が・・・!福島のお母さんは、子供を抱いて登壇し、この子たちの命を守りたい・・・!原発はいらない!・・・」と涙声で訴えました。「福島の子は色が白い・・・。公園でもプールでも遊べないから・・・。」もらい泣きしてしまいました。
ビキニ環礁での水爆実験で第5福竜丸が被爆し、久保山愛吉さんが亡くなった事をきっかけにはじまった母親運動です。今年は、繰り返してはいけない放射能被害を4度起こしてしまった痛恨の苦しみの中で大会が開かれました。最初の被害の地である広島で、「ノーモア福島・原発」が加わり、なんとしても核兵器をなくし、原発推進政策を変えなくては・・!という誓いにあふれた大会となったのです。
岡山からはのべ500人を超える人が参加しました。私たちは一人じゃない!仲間がいる・・・!という勇気をもらいました。
私もこの大会に参加できて本当に良かったです。母親大会は私と同い年・・・これからも私の人生の年中行事にしたいと思います。