母親大会分科会・・・「父と暮らせば」そして小森陽一さんの講演
小森陽一東大教授(1953年生まれ)の「文学」の話を聞きたい・・と思っていました。迷わずにNO、37分科会へ。
講演内容は、井上ひさしさんとの出会いから、「父と暮らせば」のこめた思い、実らなかった第2幕目の構想にまで及び、本当に参加してお徳な分科会でした。
井上ひさしさんが「切れた」と思うことが2つあったそうです。一つは「天皇裕仁」が「広島の人には気の毒だったが、原爆はやむを得なかった・・・」といったこと。もう一つは中曽根総理(当時)が広島の原爆病院を訪問して、「病は気から・・・。気力で病気は治る・・・」という意味のことを発言したこと。まったく人事で反省のかけらもない様子が許せなかったそうです。「書かなければ・・・」の思いが5年をかけて「父と暮らせば」の戯曲を産み出しました。
はじめての原発予算は1954年3月3日に国会で可決されています。中曽根内閣の時です。3月1日ビキニ水爆実験の2日後です。国民の命をなんだとおもっているのか・・・という井上ひさしさんの怒りが伝わってくるようでしたした。
「原発というのは日本だけだ。あれは核発電所だ。核は人とは共存できない。電力は原発がなくても足りている。原発推進者の脅しにだまされてはいけない!おしゃべりの力で政策を変えよう!」という指摘は参加者を勇気付けました。
「原発は定期点検に入るので、再稼動させない運動を強めれば廃止に追い込める。」の言葉に隣の席の人は、「そうか・・・・!」とつぶやいていました。
映画のなかで「あのときの広島では死ぬことが自然で、生き残ったことが不自然なのだ・・・」と負い目をもって生きている娘(主人公)の姿が、被災地で何度も聞いた「なぜ自分だけ生きているんだろう」「私も津波が連れて行ってくれればよかったのに・・・・」の言葉と重なり、涙があふれました。
生き残ったものは生きていかなければならないのです。「亡くなった人の分までいきよう・・・」などと軽率にはいえないけれど、私は生き抜いて欲しい・・・と思いながら被災地へ行っています。
がん経験者としての思いも重なります。がんで亡くなった人の届けたかった願いや思いを生きている私たちは受け止めて、一粒でも流す涙を減らしたい・・・・と私は思っているからです。
分科会も大満足の大会でした。いき急いでいるわけではないけれど、いろんなところへ出かけると懐かしい人と再会し、免疫力が上がる気がします。
これからもあちこちでかけたい・・と思います。人が生きているということは「行動すること」ですから・・・!