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阪神淡路大震災から20年…避難所であった人々の顔が思い出される…。どうしておられるだろう・・・

2015年1月17日 崎本 とし子 とし子からの手紙

阪神淡路大震災から20年です。映像を見ると胸が苦しくなる…気がします。2週間後に看護師として支援に入った私は避難所でたった1週間過ごしました。その後5年間通い続けたことを思い出します。その場に身を置き、話を聞き続けて私は追体験者になったようです。

忘れられないのは避難所でであった人たちの顔です。どうしておられるだろう・・・・。20年生きてきた月日は大変だっただろうなあ・・・と思います。どうぞ願わくば生きていていただきたい・・・。

私はこの時の支援で「関連死」という言葉を知りました。大震災で亡くなった人は6434人と言われます。まだ行方不明が3人おられるそうです。関連死は921人。その後も孤独詩が続き1000人を超している・・・とのことです。

関連死とは、地震の直接の原因(圧死、けが、焼死など)で亡くなった人以外に、地震では命を取り留めながら、避難所でのストレス、感染症、病気の悪化などで亡くなることを言います。新潟地震では自家用車に避難していて、エコノミー症候群のような症状を起こして亡くなる人がありました。とにかく、災害後の対応の良しあしで志望者は増えたり、減ったりするのです。

災害から命を守るのに自助、共助、公助が言われますが、共助と公助を充実させることで、死者を減らすことができる…ことを知っておいてほしいと思います。

避難所でインフルエンザが蔓延し、肺炎を併発したり症状が重篤となり亡くなった人が何百人もおられました。そのことが私は忘れられません。中には、医療費が払えないから・・・と病院へ行くのを我慢して重症化し、亡くなった人もおられます。(政府が医療費無料を打ち出したのが2か月後ぐらいで遅かった)

阪神淡路大震災はいろんなことに気づかせてくれたと思います。被災者は頑張りました。同じように苦しむ人を減らしたい・・・と、当時の政府(村山政権)がなかなか認めなかった私有財産に対する再建補償制度をつくったり、災害救助法の食費単価を引き上げたり、自らの体験からの声を上げ続けて、政治を動かしてきたのです。

すごいです!

すぐに出された神戸空港計画(今では稼働率は予定の4割?ぐらい…いらないものでした)などは住民からすれば必要のない計画でした。現在でも長田区では住民が8割しか戻っていません。「復旧はしたように見えるが復興はしてない・・・」という住民の声に表れているとおりです。

大切にしたいものはなに?「苦難に会った人が生きていけるようにすること」です。

20年たてば復興住宅から追い出し…なんてありえません。(神戸では実際に市が出て行けと迫っています)被災してやっと仲間と共に生きていた「高齢者」にどの口で「出ていけ」と言えるのでしょうか。ここでまた孤独死の数を増やさせないために、行政は「公助」を発揮すべきです。

東日本大震災から間もなく4年、インフラ整備の改善だけでもすごい遅れです。3年たったら見かけの復旧がほとんどすんだように見えた阪神地域とは全く違うのです。住宅建設ですら4年目で14%。(ひどい状況です)

大切なことは忘れてはなりません。70年前の戦争のこと、20年前、4年前の大震災のこと・・・(ほかにも災害はたくさんありましたが・・・)

災害の現場に立った看護師の一人として、私はこれからも「伝えること」を大切にしていきたい・・・と思います。

亡くなられた皆様のご冥福をお祈りいたします。そして今生きてこの日を迎えられた皆さん、亡くなられた人の分まで、共に生きていきましょう!!