「原発事故の理科・社会」を学ぶ・・・事故を忘れず、新しい道を歩みたい!
2013年2月23日 崎本 とし子 とし子からの手紙
原発事故はまだ収束していません。なのに、「保障」の「打ち切り」?・・・どういうことなのか解かりません。
原発事故は「人災」だった・・・と国の調査報告が出ています。人災ならば、原因者・・つまり東京電力はきちんと保障しなくてはなりません。どうも、「企業の論理」で、曖昧にしようとしているように見えます。
原発は一人で出来たものではありません。アメリカからの圧力のなかで、1954年3月3日にはじめて原発予算が国会を通りました。2億3400万円。ウラン燃料(ウラン234)にあわせての数字だった・・・といわれているのは有名な話です。中曽根康弘という自民党の代議士が主張し、予算化されました。
1954年は、私が生まれた年で、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に巻き込まれまぐろ漁船に乗っていた久保山愛吉さんが亡くなり、日本が3度目の被爆者の死亡者を出した年です。原発予算の通過は、事故報告が日本に伝わる前に・・・・との暴挙でした。全くひどい話です。
そのような経過で、安全神話が作られ、お金で地元自治体を服従させ、原発建設は進みました。住民の反対で、34基の原発は実現しなかったとか・・・・。
事故が起こり、故郷を失う体験をしている日本は、エネルギー政策を転換するときです。コマーシャルではないですが、「今でしょ!」
今日は、「自然エネルギー買取制度について」の勉強会です。
我が家は太陽光発電の家ですが、これからの再生エネルギー拡大の道筋について、確信をもち推進したい・・・と思います。