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宮城に行ってきました。・・・7年2か月後、まだ仮設住宅で暮らす人がいる・・・

2018年5月23日 崎本 とし子 とし子からの手紙

毎年訪問している宮城へ行ってきました。19日は坂総合病院友の会の皆さんや蜂屋食品の蜂屋社長と共に交流会。「10年通うと言ってたけど、本当に実行してくれるのはスゴイ!」と。(大したことはできません)

20日は浦戸諸島の桂島と野の島へ。2011年に避難所だった廃校と体育館が漁業体験施設(宿泊のできる)になっていました。そこの管理をしている人は、内海さんという避難所の運営委員会の役員でした。「顔を覚えているよ…」と私のことを覚えていてくださって、私も懐かしく、7年前のことを話し合いました。

桂島の世帯数は100から54軒へ(人口は160人が60人程度に激減)。島の復興住宅の皆さんを訪問して対話することができました。復興住宅は激変緩和時期が過ぎ、収入により入居費が変わります。1.5万円から6.5万円になった(子どもが働きだした)という人もいて、生活は大変そうでした。

次回の訪問では「岡山の米」を届けたいと思い、帰ってから60キロの玄米を調達したところです。

野の島は市立病院の診療所がありました。多くの人がそこに通院(週3回開院)しており、血圧管理などはできているようでした。新築中の家があり、海の近くですがやはり「住めば都」とのこと。資材の海上運送が必要なので建築費は高いようです。

21日の夜は南三陸町のホテルで宿泊。当時避難所になった南三陸ホテル観洋です。実体験を伝えたいと宿泊客向けの「語り部バス」を毎日運行。被災後1日も休まず頑張っています。「なかったことにしたくない!」と。今回ももちろん語り部バスへ乗車。

「生かされている自分」を思うと伝えることの役割を感じる、災害の時は生き残ること、生き延びること、どうその体験を生かすかを考えることが大事・・・と話されました。「生きて、愛する人を守ってください」という言葉を何度も何度も聞きました。

南三陸町は町が10メートルかさ上げされ、元のまちの姿は変わりました。海も川も10メートルの堤防で固められています。「津波を奥まで導く堤防になるのではないか・・・」と懸念の声も。

住宅は商店街の近くには多くありません。人の住まない場所にできた「さんさん商店街」です。でも月曜日でもにぎわっていました。ここでしか食べられない「キラキラ丼」(ウニとイクラの丼」)を堪能。本当においしかったです。

仮設住宅をいくつも見ました。7年2か月たってもまだ仮設住宅に住んでいる人がいるのです。涙がこぼれました。復興住宅に移った時、洗面所があることに感激した・・・という話も聞きました。仮設住宅は決して安楽な住宅ではないのです。

やはり10年は通わなくてはなりません。「忘れないで東北!」福島も含め、訪問する計画を毎年呼び掛けていきたいと思います。「蜂屋の餃子」を食べて東北支援をします。ご注文お待ちしてます。

 

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